コミュニケーションのための英語教授法に関する一考察
はじめに
この拙論は英語教育の教授法に関する具体的記述であると同時に、教授法を根底で
支える考え方についての分析的記述である。換言すれば、語学教師が旧価値と直面し、
そのような価値意識に屈伏した場合に生起する、教室での語学教師の授業内容の実情、
あるいはそれとは逆に旧価値と闘いながら、語学教育に対して今日的な姿勢を常に
我が物としていくような授業実践を包括的に記述することが主な目的である。
語学教授法に関する様々な技術論によってもたらされた変化は、教室で展開される
語学教師の意図と具体的行為の現れとしては、ごく微細な変化としてしか認識出来ない
ものである。したがって、進取の精神に溢れた語学教師の授業風景と、訳読式の教授法
に固執する語学教師の授業風景との差異は、昨今話題にされる程には大きくないと言える。
その意味においては、一見して、積極的にコミュニカティブ(communicative)な教授法を
教室に持ち込む語学教師と、旧態依然としたトランスレーションメソッド
(translation method)の枠組みの中から出ようとしない保守的な(あるいは怠惰な)
語学教師との精神的な距離感もほとんど紙一重に過ぎない。それ故、語学教師は、自分が
置かれた環境によって、教室での教授法は新旧の価値意識の間を両極に振れる。少なくとも
両極端に振れる可能性がある、と考えるのが現実的な見方である。
文部省がオーラルコミュニケーション(oral communication)A・B・Cを高等学校の
カリキュラムに導入するまでに、中学校における英語の教科内容はリーディング主体の
それからコミュニケーション主体のそれへと確実に変化した。その意味では、中学校の
英語の授業は、少なくとも教科書の成り立ちから見れば従来型のトランスレーション
メソッドだけでは全く成立不能になったと言って過言ではない。また同時に、中学段階の
教科内容の変更によって、この種の変化は確実に高等学校へと受け継がれるはずのもので
あったと推察される。この意味合いにおいては、当時の中学校における英語教育内容は、
高等学校の授業変革の実験段階にあったと思われる。しかし、いまさら言うまでもないこと
だが、語学教育の変革の波は高等学校へは事実上とどかなかった、と言って差し支えない
だろう。現状では教科書の体裁だけが幾分コミュニケーションを意識したものになっては
いるものの、それらをコミュニカティブに活用する方法論を展開できるのはごく少数の
優れた語学教師たちに限られることになった。
具体的教授法を支える思想についての選択
19世紀のアメリカで自然教授法(Natural Method)の提唱者だったH.Seetは
「優れた教授法はまず包括的で折衷的でなければならない。しかも言語科学の徹底した
知識に基づいていなければならない。・・・・この知識を用いるに当たっては、常に
心理学的法則にしたがっていなけれならない」とし、また「頑固な保守主義の極端と、
無謀な急進主義の極端の中庸」が必要であると説いた。また、H.Palmerの複合的
アプローチ(multiple line of approach)という考え方もそのコアーは「中庸」
である。H.PalmerはThe Principle of Language Study(1921)の中で非常に
具体的に、「2つか、あるいはそれ以上対立する方策を受け入れ、・・・・それらを
別個のものとしながらも大胆にプログラムの中に包括し、均整のとれた、まとまりの
ある全体の中でそれぞれが充分機能できるようにするのだ。・・・・目前の目的へと
われわれを導き、ついには最終目標に近づけてくれるようなものなら、どのような
教授法も、過程も、練習問題も、ドリルも、工夫も、使用する。優れた考えならば
どんなものをも採用し、将来のすべての発展のために扉を開いたままにしておく。
無益で有害な作業以外は何も否定しない。複合的アプローチは、折衷的原理を具体化
したものである。・・・・何故ならばそれは、われわれの仕事の助けになりそうなもの
すべてを、偏見なく、賢明に選択することを命じるからである。」と提唱している。
このような考え方に立脚出来る語学教師であるなら、あらゆる既知の語学教授法の
最も優れた技術を、その目的に最もかなったように応用するだろう。また学習者の
あらゆる段階において4技能を均整のとれた形で発達させるように努力するだろう。
特に学習の初期段階においては、聞き、話す技能に力点を置いて教授するに違いない。
折衷主義を信条とする語学教師は豊かな創造力を発揮して、常に新たな実験に挑んで
いくので、教室を常に変化に満ち溢れた空間に変えてしまうのである。
英語教授に関わるいくつかのテーマについて
(1)英語(4技能)の学習順序に関する従来の考え方と改善点
英語の学習順序は、あたかも用事が母語を獲得していく順序にしたがって、
聞く→話す→読む→書くという流れが妥当な学習過程である、という考え方は教授者側
に漠然と、しかも根強くある発想である。勿論、このような自然教授法
(Natural Method)の信奉者は、従来型のトランスレーションメソッドに偏重した
教授法から一歩も出ない語学教師とは比較にならないほど優れた発想をする人々では
ある。
しかし、そうは言っても、自然教授法を単純に中学生や高校生の教室に持ち込んでも
大きな効果は期待出来ない。その理由は学習者の意識の違いを無視している点にある。
すなわち、幼児が母語を習得していく過程は、自分の置かれている環境の受容、
概念形成、言葉の習得という3つの要素を全て同時に行っており、また幼児にとっては
言葉を真似ようとする際の間違いや不正確な読みですら、たいていの場合周囲の
大人たちの賛同と関心によって報われる。したがって彼らはこの方法論に従えば、自分
にとって必要なものをそれほどの困難なしに手に入れられる。また母語をよろ積極的に
使う動機が高まっていくのである。
ところが私たちが外国語を教えるべき生徒たちは、既に母語という効果的な伝達手段
を所有している。彼らの基本的な必要度から見て、必ずしも必要でない別の伝達手段を
強制的に、しかも上級学校への入学の要件として位置づけられた外国語を、幼児と同様
の学習過程で学ばせれば同様の効果が現れるはずだ、という発想そのものがあまりに
牧歌的であるかもしれない。
とは言え、語学教師にとって最も重要なのはある教授法の是非ではない。ここで必要
なのは、言語材料を学習者に提示する際、各々の技能をどのような順序に並べれば
教える対象者にとってより効果的か、という観点であり、新たな状況創出のための勇気
である。またそれによってもたらされた学習内容の変化そのものが、学習者に既習の
教材内容を別の場面で応用させたり、これまで以上に積極的に使えるようにさせるので
ある。
前記したように、どのような考え方に立とうと、それが過剰になればよい結果は
期待出来ない。すなわち、教授者が極端にはしりすぎると生徒は教授者の思惑とは
裏腹の行動をとる可能性が大きいということである。たとえば教材導入の初期段階で、
リスニングで理解するように期待され過ぎると、学習者は自己流の不正確なノートを
つくり、それによって誤った理解の仕方をしてしまうことも起こり得る。
したがってかなり初期段階から、新たな教材導入の際に、4技能のうち、リスニング
からはじめて、後の諸活動を1時間の授業の中に比重のかけかたは違っても必ず
盛り込む、という視点を持つことが必要なのである。
(2)リスニング・コンプリヘンション(Listening Comprehension)
に関わる問題点の整理
自分が話していることが他者に理解されない限り、話すという行為自体の意味は
コミュニケーションという観点から見るかぎり皆無であると言ってよい。しかし、
それ以上に深刻な事態は、他者から自分に話しかけられたことや、自分のまわりで
話されていることが理解出来ないという状況である。外国語習得に関する領域に
おいて最も重要な要素とは、実は話された言葉の理解の仕方を教えることなのである。
したがって、あくまで英語文法に関する知識というのは外国語習得の第一義的要素
ではない。それは言うならば第二義的、あるいはそれ以下に位置づけられる要素に
過ぎない。この点を明確に理解しておかないと教授者の側に思想的混乱が生じ、
自ずとその実践においても生徒にコミュニケーション能力をつけるような創造性が
発揮出来ないことになる。その結果、学習者にとっては無意味で無駄な数年間を
学校の英語の授業の中で空費することになるのである。
(3)リスニング・コンプリヘンションのためのドリルに関する考察
極論すれば、リスニング・コンプリヘンション能力を高めるための発話はすべて、
その最初の授業段階から、ごく普通の速度で行われるべきである。しかし、
この普通の速度というのは、ネイティブ・スピーカーが自然状態で話すような
速度のことではない。それはつまり、教室での発話速度は、ネイティブ・スピーカー
の耳に過度なまでに不自然なほどゆっくりしたペースであってはならない、という
ことである。具体的に云えば、語群・音声脱落・連結・子音同化・句と文の強勢・
イントネーション等々が正常に保たれた速度ということを意味する。
また、生徒のリスニングに関する理解を助けるために、ドリルにはある程度の
反復教材(repetition materials)を含めるべきである。それは説明や描写を
少し言葉を換えて反復(repetition)するたぐいのものでよい。このような反復は、
実際上の話し言葉の大きな特徴と言えるもので、会話や即興の言葉の中には、
言語上の余剰と同様に、内容上の余剰(redundancy)が存在するからこそ必要
なのである。したがってあまりにも整理され過ぎたリスニング教材を学習者が
聴きとる場合、内容の余剰が省略されている分、殆どの場合理解し難くなっている。
リスニング教材の多くは、このような誤謬からいまだに自由ではない。
学習者がその聴解能力を発揮して、話者の話の内容を聴きとっている場合に、
学習者は予測や推論の力で話者の話す内容から、その意味的手掛かりを?みだすので、
形態上あるいは統語上の要素の識別や理解は不必要になる場合が多く、その殆どは
余剰要素になる。しかし、またその一方で学習者が発話において、これらの余剰要素
をある程度正しく使えなければ、学習者の発話は理解不能なものになってしまい、
聴き手には受け入れられないものになってしまう。また、状況を示すコンテキスト
(context)があって聴く場合、あるいは意味を視覚的に示された場合に、言語的な
手掛かり以外の多くの要素によって、学習者には話者の意図した意味の解釈が出来る
のである。ここで云う、言語的な手がかり以外の要素とは、例えば身ぶり、周囲の
物理的要素、人間関係、現実世界で起こりそうなことに関する知識などである。
リスニング・コンプリヘンション能力育成は教室ではしばしば軽視されがちな
コミュニケーション活動であるが、しかしこの能力は外国語習得にとって最も重要な
要素の一つでもある。したがって学習者に対して、あらゆる種類の話されたメッセージ
を理解出来るのだという自信をつけてやることが、とりわけ初期段階の指導目標で
なければならない。つまり外国語学習の初期段階で、聴くことに自信をつける必要性、
学習者に不自然に加工された教材ではなく、本物の教材に触れることの重要性、
早くから外国語のリズム(強勢、イントネーション)を体得させることには大いなる
価値があると思われる。
(4)スピーキング・アビリティ(speaking ability)
を高めるための考え方について
もし、語学教師が教室で授業内容の全てを外国語でしか話さなかったならば、
学習者もいつかはその言語を流暢に話すようになるだろう、という推論を信じている
教師たちがいる。このような語学教師はESL教授法の訓練を受けたALTの中にも、
単なる経験論的な英語教授法を実践してきたJTEの中にもいる。しかし彼らの発想
の本質は至極単純である。それは学習者に、子どもの頃に自国語を学んだのと
同じように第二言語を学ぶ機会を与えているのだとして、このような考え方を正当化
しているだけなのである。(1)英語(4技能)の学習順序に関する従来の考え方と
改善点で既述したように、幼い子どもは間違った言語形式を用いながらも、
目を覚ましている間中片言で話し続けることによって母語の話し方学ぶのであり、
たいていの場合は特別に言い換えた言葉で始終話しかけられるし、また話すように
励まされるのである。したがって、語学教師に要求されるのは、幼児期の子どもに
対するような対応ではない。そうではなくて、相当に意図的で、創造的で、言語素材
を学習者に与える場合においては想像力を駆使しなければならない。それは、学習者
にごく限られた語学力しかない場合でも、学習者が自らの言いたいことを表現する
ためにその言語を用いてみようとするような状況を創り上げるような仕方で
発揮されねばならないのである。また、学習者は目標言語を用いることによって、
目標言語の要素の組み換えや再配列がいかに新しい意味を創り出すかに気づくこと
になる。換言すれば、学習者は言語とは多様に用いることの出来る価値ある道具で
あることに気づくことになるのである。
逆に話すことの積極的ドリルを、学習者が書き言葉の習得・分析・再編成後の、
所謂「言葉のわかる」段階にまで放置してしまうと、多くの学習者は自分以外の
人間の前で慣れない音を出すことに抵抗感を持つようになり、教えられてきた
言葉の言語的約束事の複雑な形体を用いて口頭で自己表現することの困難さを
思い知らされるだけである。また学習者が受ける授業が、彼らの言語回路を
和文英訳という枠に押し込めるようなものであるなら、その進歩は著しく
妨げられることになる。何故なら、学習者は表現したいと思うことのすべてに
目標言語と母語との一対一の対応語を探そうとするからである。また、ある決まり
きった言語パタンの使用の訓練を受験対応と称して訓練しすぎると、自分の言いたい
ことに対応する目標言語の多様な表現方法の中から、柔軟に妥当なものを選びとる
力が失せてしまう。
また、学校の授業の場では、学習者は概ね授業やラボラトリーでの口頭練習に
おいて即座に、正しく、躊躇せずに答えるように期待される。また、学習者が
目標言語で自分の言いたいことを模索している最中に、教授者においては概ね
完璧で正確な文法形体や構文、また語彙項目の最も適切な選択を期待し、母語での
会話において達成されるよりも高度なレベルの表現を語学の授業で要求してしまう
ことになりがちである。
言うまでもないことだが、学習者は自分の表現したいことの全て発話の中で、
新しい方法で組み立てる必要はない。むしろ、発話の状況に合うように語彙を
変化させて、語彙要素を組み換えればよいのである。外国語で会話をする能力は、
授業ではラボラトリーでのドリルを土台にして、究極的にはその言語で頻繁に
会話することによってのみ発達すると言って過言ではない。
(5)スピーキング・アビリティ(speaking ability)をコミュニケートしたい願望
(desire to communicate)へ移行させるための前提条件について
自発的な言語活動は、言語コードと用いる知識と技能のみから生まれるものではない。
それは学習者が他者とコミュニケートしたいと云う意思を持っていることを前提として
いる。教室で目標言語で発言しない生徒は、「言うべきことがない」ということが多い。
あるいは学習者にとっいぇ興味の持てる話題や、学習者が話す動機(motivation)を
持たせることが出来ていないために起こる現象であると言って過言ではない。
さらに重要なことは、学習者にとって何か言うべきことを持つことや、言うべき
動機を持つことに加えて、伝達内容を個別の誰か、あるいはグループの中の数人に
対してコミュニケートしたいという願望が学習者の中になくてはならない。
心理学的な実験結果においても、人は他者が反対したときよりも同意したときの
方が会話を続けやすい、というのはごく常識的なこととして認識されている事柄で
ある。また多くの社会では、あることを表現すると自分の会話の相手を不快に
させたり当惑させたりする場合はそれを言わないように心掛けるという不文律が
文化様式としてある。したがって、あらゆる細かな間違いまで教師にたえず
訂正される学習者は当然のごとくコミュニケートしたい、という欲求を放棄して
しまう。しかし、よく考えれば分かることだが、会話の最中に多くの言い誤りを
すること自体が、実は語学的知識不足のせいというよりは、何をどのように
言うべきかを発言者が考えている最中に起こり得る状況であることが殆どなので
ある。
したがって教授者にとって最も重要なことは、上記のような状況に陥った学習者
の心理の中に教授者が不断に割り込んでいく、というような過ちをこそ避けるべき
なのである。つまり、語学教授者が学習者の発言の途中に割り込んでいける場合は、
次のような時を除いては効果が上がらないと考える方が現実的である。
それはすなわち、学習者が長い間躊躇し、そのまま発表を続けられなくなったり、
理解を妨げるような発音上の間違いをしたり、教授者が意図した意味を伝えきれて
いないことが明確な場合等である。学習者にとって、ことばを習うということは、
話すことと密接な関連があるのだということが分かっている。したがって学習者
は話し方の技術(the art of speaking)を学ぶことを期待しているのである。
だからこそ学習の初期段階で「耳と口による」アプローチ(aural-oral approach)
を導入することによって語学学習に対する関心と熱意が増す。たとえば、我々が
目標言語を読んだり書いたりする時にも、その言語に関わる知識を総動員して
理解しようとする。目標言語のスクリプト(script)の背後にある音を認識し、
イントネーション(intonation)や音の強調(stress)等の多くの要素を
読みながら補っているのである。また、目標言語を書く時も、たいていの場合、
自分で口で言うことを文字にしている。高度に洗練された言葉を選択する場合に
おいても、どの言葉が最も耳に心地よく響くかを検証しているはずなのである。
もし、学習者が目標言語で話すことを訓練されていず、書くことのみに重点が
かけられていれば、学習者が作文する時には、既習の規則に従って目標言語の
要素をつなぎ合わせ再配列するという機械的な訓練に過ぎなくなってしまうのである。
また、このような機械的訓練によっては自分の考えを英語で書くことによって
洗練させ、より創造的なものにするということは期待出来ない。
(6)国語の基本的構造を習得させるための具体的方法論とその指標について
(ア)学習者は言語材料においては、リーディングの部分で意味のあるコンテキスト
に出てくる新しい構文に接する。初期段階では、たいていは会話文(dialogue)
だが、教授者はリーディングの部分の内容に関する質問を通してその構文を学習者
に強制的に用いさせる。その構文が学習者によく理解出来てない場合は、教授者は
リーディング内容の中から語彙や場面を含む素材を使ってQ&A形式等を利用した
ワークシートを創り、リーディング内容の中の応用の効く構文を書かせるようにする。
さらに、ワークシートの答えの部分を隠させて、口頭練習に移行する。
(イ)構文は、口頭でも書かれた文章でも、現実に起こり得る言語的コンテキスト
の中で学習者によって経験される必要がある。また、その練習は常に創造的で
なければならない。創造的とは、習得を目的とする構文を、学習者が積極的に
用いて、自らの言いたいことを構築していく可能性に満ちたものである必要性が
ある。
(ウ)学習者は、学習している構文の変化形を練習している時、自分が何をして
いるのかを理解していなければならない。その指標は、構文の変化によって意味内容
がそのように変わったのかということを理解しているかどうか、ということである。
また、目標構文を習得するためには徹底した練習が必要であるが、想像力に乏しく、
単なる繰り返しに終始する退屈な作業が過剰になると、学習者は疲労と嫌悪感を抱く。
(エ)新たな目標構文の理解を学習者がしたかどうかの最終的な指標になるのは、
教授者の個人的な評価だけではない。そこには学習者が所属しているクラスの存在が
介在していなければならない。この際のクラスの定義は、互いの活動に関する知識や
関心を通じて次第にグループとしての一体感のある個人の集まりである。
コミュニケーション一般についても同様だが、外国語習得に関するコミュニケート
(communicate)とは、前記のようなクラスにおいて、目標構文の要素を、学習者が
自信を持って自然な状況のもとでクラスの構成員と意思疎通出来ることを学習者が示す
まで、どのような構文も学習出来たという規定をしない姿勢が教授者には必要不可欠
なのである。
(7)読む技能(The Reading Skill)はどのような過程を経て習得されるのか
新しい外国語教授法の多くが、初級レベルの外国語授業を対象にして論じられて
おり、授業実践に関しても初級レベルのものをどのようにコミュニカティブ
(communicative)に行うか、ということに関心の中心があるかのような印象を
受ける。したがって、古典的(あるいは反動的)に訳読式(translation method)
の方法論だけに固執する教授者たちは、新しい教授法は、詰まるところ他国の
文化的背景に触れ得るような内容のあることを表現出来ず、このような外国語教育を
通して学習者の知識や理解が広がることはないと主張する。言語教育の方法論
としては創造性のない訳読式は高踏的な文化主義の中で合理化されてきた。
しかし、このような反動的な語学教師たちの批判は、それ自体が自らの思想的な
怠慢の現れであることに気づいているだろうか?様々なコミュニカティブな教授法が、
初期段階の学習者への配慮が濃厚なのは当然なのであって、目標言語
(target language)を習得するための最も重要な問題は、初期段階の教授法の視点や
方法論が、学習者の生涯に渡る外国語習得への姿勢に大きな影響を及ぼす、ということ
なのである。外国語で物を考え、所謂4技能における能力が母語を介在させずに縦横に
発揮されるような方向に学習者を鍛えていくという思想がなければ、教授者にとって
新たな教授法に取り組んでいく意味がなくなるであろう。
反動的な語学教師たちは、言語学習のごく初期の段階からかなりの量の読み物を
学習者に与えて、読みの経験を豊かにすることが学習者の言語に対する知識を広げる
上で重要だと主張する。このような学習の初期段階での学習者たちの現実とは、
まず辞書や単語表の助けをかりて、テキストの一部を解読する。その際、学習者は
不明の語にそれと近い意味の自国語を書き込み、陳腐な物語(習得させるべき(?)
文法事項を無理やりねじ込んで不自然に創られた読み物)の、さらに細かな部分の
解明にのめり込まされる。このような状況のもとに学習者がある程度の期間放置
されれば、学習者は確実に外国語と母語の構造上の違いを無視して、母語のある一語
と言語的・文化的・思想的に全く同質の語が外国語にも存在するものだ、と錯覚して
しまうのである。日本において、義務教育から大学まで英語を学習した学生が、英語を
コミュニケーションの手段として自由に駆使することが出来るのは、実は、上記の
ような外国語学習が如何に弊害に満ちているか、ということに自覚的になった瞬間で
ある。その瞬時に学習者は、長年に渡る誤謬に満ちた教育の中で投げ込まれた
言語的知識を、コミュニカティブに編み換えることが出来るのである。
「読み」とは、言語知識を拡大させるための重要な活動である、という規定は、
少なくとも2つの要素が整ってはじめて意味のあるものとなる。一つは学習者が、
話し言葉と書かれた言葉の両者の相違点に気づくように指導されていて、話し言葉と
書かれた言葉の両者の知識を広げるのに役立つような教授法が用いられているか
どうかということであり、もう一つは学習者の能力に応じた素材によって、
一貫性のある文章から新たな言語知識を最大限に引き出せるように訓練され、
学習者が自信と理解力とを同時に高めるように素材を読んでいるか、である。
特に初級で使用するテキストは既習のものを組み変えて、余剰要素もかなり入れた
読みの練習用のものでなければ不適当である。この段階での訓練を十分に
させなければ、学習者は英語の基本的な意味の仕組みすらつかめぬうちに読みの
教材へとせき立てられることになり、最悪の場合は記号の解読者となるだけなので
ある。さらに学習者が自力で読める素材とは、学習者がよく知っている要素を
うまく組み直したものであり、かつすぐに理解できそうな新たな要素を少しだけ
加味したものでありさえすればよい。
直接教授法を活かした授業の場合においても、対話学習や口頭練習に基づかない
テキストを使う場合もある。このような傾向は、学習者の年齢が増すに従って多く
なる。この際教授者が気をつけるべきことは、学習者がテキストを読める土壌を
如何に創っておくかということである。すなわち、まず語彙や文の構造に関わる
諸点を口頭で十分に練習した後に、学習者にテキストを読ませるのである。
さらにその次に、教授者、またはテープのモデルリーディングの後について
学習者に読ませるが、最初から語群単位で読ませ、その語群の持つ意味を
与えた上で声に出して読む、という手順が必要である。
例えば教授者が生徒に朗読させた後にすぐに当該箇所についての質問する
ということがあるとして、もしこのような教授法が常態化していれば、
これは理解のために読むこととは無縁である。何故なら、生徒の集中力は
様々なものに注がれているのが普通であり、うまく朗読することに注意を
集中させている間は、朗読している素材の内容には注意が向かないのが
あたりまえなのである。別の言い方をすれば、理解のための読みとは、
本質的には、音声に変える作業ではなく、その作業の前になされるものだと
云っても過言ではないからである。極論すると、学習者に音と文字の対応に
注意を集中させながら、一方で学習者に自分の朗読を耳で聞かせるという
方法は、テキストの意味内容を汲み取ることを阻害する可能性すらある。
したがって、朗読した箇所は数分の間でも黙読させた上で質問するという
迂回が必要なのである。
さて、「読み」の評価とは、たとえば学習者がある目標言語の本を読んだり、
その内容について話し合ったり出来るからといっても、学習者がその内容を
完全に理解していると考えるのは早計である。もし、教授者が学習者の評価を
このように安易にしてしまうと、目標言語の練習量を減らしてしまうことになる
からである。「読み」の課題を与える時、教授者が気をつけるべきことは、
たとえば、いま読んだものを積極的にコミュニケーションのやり取りの場で
使用する機会をたえず学習者に与え続けることである。「読み」の導入は
書き方(The Art of Writing)の練習の導入にもなるのである。
これら二つの技能は相互に強化しあい、耳と口による学習を強固にする。
つまりは、初期の段階から、聞くことと話すことに重点を置きつつ、
4技能を同時に鍛えれば純粋に耳と口からの授業よりも教授者と学習者双方に
とって極めて変化に富んだ授業を創造することが可能になる。
(8)「書く」技術(The Art of Writing)
書く技術は外国語教育における重要な要素だと考えられており、実際にこれまで
延々と外国語教育の現場において続けられてきたものである。したがって書く技能
における有効で効果的な方法論が確立されているとかんがえがちであるが、現実は
教授者側のかなり曖昧な理解の上に成り立っているものに過ぎない。何故そうなる
のかと云うと、その理由は教授者側にごく単純な事実認識が欠如しているからである。
それは母語においても、何かを書くという場合は適切な表現をすることが難しいと
いう事実であり、さらに、どのような言語であれ、何年も学校で訓練を受け、
その後も練習を重ねた末にやっといくらか巧みに書く技能を獲得していくという
事実である。
他者に理解できるように書く、という行為は話すという行為に比べて格段に
難しいということを認識しなければならない。口頭でのメッセージは、相互的
(interactive)な共感が前提として在る。また、口頭におけるメッセージが
うまく伝わらない場合でも、伝達者と被伝達者相互の努力によって軌道修正が
容易である。
しかし、書くという行為においては、統語的配列と語彙の選択を通して、明確で
曖昧さのない学習をしなければならない。同時に書く訓練においては、表出
(production)の段階で学習者に最も要求されるのは、自分の最も知っている
表現を柔軟に使い、自分が持っている力を状況に会わせて最大限に活用することで
ある。したがって書くという行為はそれ自体単独で学習出来る技能ではない。
学習者にとって書く練習段階とは、綴りや文法的な約束事を別にしても、
聞き取り理解(Listening Comprehension)・話すこと・読むことの上達の
ために不可欠な要素、換言すれば言語知識の核として位置づけられるような性質の
ものである。具体的に云えば、書くことは生徒に多様な構文を操作させ、語彙項目
を選択し組み合わせる訓練をさせた上で、見たり聞いたりしたものに
動的イメージを与えて強化することでもある。
書く訓練において、効果的だという錯覚の上に成り立っていることがいくつかある。
それはたとえば外国語学習の初期段階で、それほどの見通しもなく学習者に創作的な
ことを書いてみるように奨励することである。当然のことだが、このようにして
書かれた作文は的確さを欠くどころか、構造上の破綻をきたしているのが通例の
姿である。教授者はこの段階で、学習者に確実に認識させるべきことがある。それは、
初期段階から創作的に書く試みは素晴らしいことだが、同時にそのような行為は
あくまで自分の知識の範囲内で作文をしているのだ、ということである。そうすれば
学習者は口頭練習や読みにおいて既習の構文や表現を自分なりに組み合わせて、
興味深くおもしろい表現に富んだものを書くことが出来る。このような認識が学習者
に根付けば、放置した場合には次第に薄れてしまう多くの外国語の言語素材を、
新たな状況のもとで繰り返し用いることが出来るのである。
教授者がしばしば書く訓練の一つとして位置づけている、空所を埋める練習問題
や多岐選択問題は、ある文法特性がどれほど正確に学習されたかを短時間でチェック
するのには有効であるが、言語を書くという点では何の練習にもならない。という
事実に着目すべきである。書くことを学ぶためには、書かなければならない、という
単純な事実があるだけである。しかも、個々の単語や語群ではなく、完全な文を
書かなければならない。
第二言語あるいは外国語で表出する場合は、言うまでもないことだが学習者は
ネイティブスピーカーほど広い領域の表現を用いることは出来ない。また学習者の
第二外国語の知識は彼らの母語における知識やそれを駆使する能力よりはるかに劣る。
したがって学習者の外国語における表現手段が比較的限られている段階では、
抽象的な表現、たとえば文学的あるいは哲学的に偏ったテーマについて書くように
求められると、母語における作文力と同じ水準で書こうとするために挫折感を抱く
ことになるのである。このようなジレンマに陥った学習者を救う唯一の手段は単純化
(simplification)という作業である。またこの単純化は、ジレンマに陥ろうと、
そうでなかろうと常に外国語学習者にとって意識し続ける必要のある知的作業でもある。
それはすなわち、学習者自らが駆使出来る範囲の単純で明快な言葉で考えを表現する
ということである。具体的な例を挙げれば、例えば和英辞典を選ぶ場合は、語彙の多さ
が基準になるのではなく、具体的で、言葉を入れ換えれば広く応用の効く簡単な文例が
豊富な辞典が必要なのである。そして複雑な内容を書く場合には、和英→英和、
和英→英英辞典、あるいは英英→英和辞典という学習の流れがあれば学習者はより
簡明に、叙述的に、注意深く自己表出するようになる。
書くという技能は、教授者による意識的な他技能との組み合わせがあってはじめて
効果的に習得できるものである。また、当然のことだが、書くという行為は学習者の
まとめの活動として位置づけられるものである。教授者にとって大切な問題は、
書かせることによって外国語学習をより効果的に、効率的に行おうとするなら、
他の技能、すなわち「耳と口による」訓練や読みの訓練に支障をきたすほど時間を
とってはならないという点である。学習者にとって、他の技能の訓練が充実し
その学習効果が上がれば、書く内容はそれに従って洗練され、上達していくもの
なのである。
(9)テストの原理とそのテクニック(Testing: Principles and Techniques)
(ア)個別テストと総合テスト
言語の詳細にわたる知識のテスト(ex.文法構造、語順、発音、語彙、スペリング等々)
を個別テストと呼んでいる。このテスト形式はある特定部分への生徒の注意力に焦点を
置く。個別テストには自ずと限界も生じる。例えば、空欄埋めのテストは、もし適切に
創られていれば、語彙の不規則な変化、自制の知識、前置詞の用法、限定された文法知識
の定着度などを調べるテストにはなり得る。しかし、意思伝達をする能力を確かめる
には妥当性(validity)を欠く。
これに対して、言語を実際にどの程度使いこなせるかを確かめるテストを総合テスト
と呼ぶ。総合テストは、言わば言語の機能化、すなわち伝達内容を発展させ、
意味のある談話(discourse)にする能力が問われる。またその応答には種々の
技能を相互に活用することが要求されるので、この意味合いにおいて総合テストは
全体的な言語力をみるテストと考えられる。
個別テストは技能習得テストであり、総合テストは技能使用テストと規定することが
出来る。したがって、両者にはそれぞれの役割があり、異なるレベルの特定目標に対して、
教授者が適切なテストを単独で、あるいは組み合わせて実施することになる。
(イ)何をテストするのか?
教育目標や教授法が変化すれば、必ず教授法とテスト方法との間に時間的なズレが
生じる。ある特定のテスト形式が時代の流れのなかで確立してしまうと、教授者自身が、
自分たちが受けてきたテスト形式を無批判に受け入れてしまうことが起こり得るので
ある。言葉をかえて言えば、教授者が時代の流れについていけないために、学習者の
語学運用力を阻んでいるのである。現在、外国語学習における社会的関心は過去と
比較できないほどに変化してきており、外国語学習者に期待されるものは、
学習している外国語における4技能を理解し使いこなせる、ということである。
テストは云うまでもないことだが、教授者が目標設定した言語素材を、学習者が
よく学び、よく習得した事柄について試されるべきである。最も無意味なテストと
いうのは、個別テストであれ、総合テストであれ、学習者がよく学んだ部分を
意図的に無視して文法的な細部をほじくり出すような出題をするようなものである。
しかしこのようなテストの妥当性を無視した態度は語学教授者にしばしば
見受けられる現象である。
(ウ)テスト作成上及び実施後の留意点について
1.テストの問題解答における指示は学習者に誤解を与えることのない
明解なものであるか。
2.学習者がやさしい問題から手をつけて順次むずかしい問題に移行出来る
ように作成されているか。
3.目標言語の単なる知識をテストすることに終始するのではなく、
目標言語の運用能力を試すテストになっているか。
4.テスト内容は言語的に有用で有効なものになっているか。
5.テスト結果が、学習者にとって有用で有効なフィードバックが出来るものに
なっているか。逆に、テスト結果から学習者が望ましくないフィードバックを
受け、テスト以後の指導にマイナスになっていないか。
(10)コミュニケーションに繋がる言語教育の基礎的要件(まとめとして)
日本における言語教育、とりわけ英語教育においては、各時代ごとに様々な理由が
ついて、コミュニケーションのための言語運用(特にoral-auralの分野において)の
側面がないがしろにされてきた。本論考では、歴史的背景を網羅しながら、
どのように言語運用面が軽視されてきたのかを記述する余裕はないが、少なくとも
昨今の実情から明確に云えることは、大学における英語教授法の専門家の数が圧倒的
に少なかったことと、彼らの大学における地位が英米文学の教授者と比べて相対的に
低かったことが大きな要因の一つになっていると思われる。したがって大学入学試験
内容が、共通一次試験→センター試験へと変遷する過程で、次第にoral-auralの
分野が取り入れられるようになっても、旧態依然とした入試問題
(translation method によっても十分に対応可能なもの、あるいは
translation method による学習法の方が効果的であると学習者に
錯覚させるような陳腐な問題)が生き残ることに繋がったのである。
このような原因は歴史的に見れば、前記したように英米文学を教えることを生業に
している教授者が同時に語学教育のエキスパートとみなされてきたことが大いなる
錯覚として挙げられるのではないだろうか。しかし、大学におけるこのような
人事的なファクターも、大学入学者の減少による大学教育の大衆化及び生涯学習の
場として様変わりする過程で劇的に変化していくことだろう。むしろ高校以下の
語学教師たちの「大学受験のための語学教育の誤謬」に終止符を打ち、
新たな時代に立ち向かうための教育実践を積み重ねていかねばならない時代が
到来するであろう。
筆者は大学入試が中央集権的に統一されることに対しては反対の立場であり、
入試問題には大学ごとの研究成果が反映された問題が出題されるべきものと考えるが、
もし一つだけ現状の入試制度を支持することがあるとすれば、外圧的な力が
加わることによって旧来の試験のありように対して、センター試験を介して入試を
個別に実施している大学にも、幾ばくかは現代的な原義的要請が浸透したことである。
このような状況のもと、中学や高校では英語教育の分野でどのような変化が
起きているかは既に述べた通りだが、特に中学における言語教材と高校における
それとの間には大きな乖離がある。現状では中3から高1にかけての断絶が最も
顕著な例である。元来教材の改善が最優先されるべきだが、多くの教授者は
このような言語教材の非連続性を自助努力によって改善している。しかし、
力量のない教授者は、このような制度的に生じる問題を学習者の学習意欲の
有無に解消させ、学習者を脅迫的に「シゴク」のである。その結果は大学入試は
何とかクリアしても結果的に多くの英語嫌い、外国語嫌いをつくり出すという
罪悪を犯している。それにとどまらず、学習者は外国語によるコミュニケーション
それ自体に恐怖感や嫌悪感をすら意識的・無意識的に抱いてしまう可能性が大きく、
学習者の人生に多大な悪影響を与えていることである。
では、何故このような悪循環が教育の現場で起こるのか?残念なことだが、
上記のような現象の因果関係はデータ化出来ない性質のものである。学習者の
心理的変化を計測するには中学・高校の時代から大学卒業段階にかけての
段階的な時間区分で実施する必要があるが、現状ではそのような計測方法は
皆無であり、このような研究に手を染めている研究者を筆者はまだ認識していない。
それでは言語教育に対して絶望的な将来をしか私たちは展望できないので
あろうか?勿論希望はある。具体的に問題を絞って云えば、例えば中学―高校
との言語教材の非連続を個人の力量の有無の次元の問題から、教材の連続性を
創るための言語教材の配列及び教授者側の思想をコミュニケーション主体への
それへと組織的に編み直すことである。
たとえば現状の中学と高校とのテキストの構成の論理がほぼ変わらないとして、
中学・高校との教材的な関連性を創造するには、高校のテキストにおける
数多くの日本語による無意味な文法用語を撤廃することである。この古めかしい
文法用語によって、高等学校で学習すべき英語表現を学習者が吸収する時間を
どれほど奪い取っているかを、いま一度教授者は考え直す時期に来ているのでは
ないだろうか。撤廃して、より学習者に分かりやすく、合理的に理解し得る用語を
発見していくことである。また、文法事項を説明するための、無意味に難しい
(コンテキストを無視していることで学習者には理解が困難になるし何より困る
のは学習者が、このような素材の粗悪さを、教材の高級さや高度さと混同して
しまうことである。正確には、これは教授者の思想的な混乱・混同が学習者に
伝播していると云うべきだろう)例文なるものの改善も日々の授業の中で
なされていかねばならない課題である。英語表現を効率的に提示するのが
外国語学習者の重要な役割の一つであるにも関わらず教室において如何に
日本語文法用語を意味なく学習者に吹聴していることだろうか。もしこのよう
な馬鹿げた用語を一切使用せずに英語の授業をすることになれば、教授者は何を
考え、同時に何を実行しなければならなくなるだろうか?
答えは明白であり、ある意味でそれは困難な道程である。何故ならそれは
教授者に、学習者にとっての言語学習者の先輩としての自覚を取り戻させ、
自らの言語学習の過ちを修正しつつ、純粋により良い言語材料の提供者として
学習者に対峙することを自らの存在理由としなければならないからだ。語学教授者
にとっての真の課題とは、実は教育技術の刷新というよりは自らの思想の新たな
編み換えと刷新そのものであり、自らの経験と勘に頼っているような無自覚な
教授者にとっては至難の業と云える道程である。
(1)リーディング指導の現状分析
中学校・高等学校におけるリーディング指導の最大の転換点は、所謂
ボトムアップ(bottom-up)方式からトップダウン(top-down)方式への
移行にあると思われる。ボトムアップ方式におけるリーディング指導では、
context を「読み」の要素から除外して、@word→Aphrase→Bclause→
Csentence→Dparagraph→Ethe whole textへ「理解」の幅を拡げていく
ことに重点が置かれることになる。ボトムアップ方式は、昨今の英語教育界に
おいては劣勢の極みに立たされている。ところが、今日においても意図的に
この方式が採用されているのは、巷で言われているように、教える側の言語能力の
欠如や勉強不足が主な要因になっているのだろうか。勿論、この種の批判は妥当で
あり、ボトムアップ方式に固執する語学教師たちのうちには、大学入試問題の現状を
楯にして、自己の教授法に関する反省や刷新について無関心を決め込む人たちも
いない訳ではない。しかし、ボトムアップ方式の根底に潜む言語教授に関する
「思想」は、明らかにしておく必要はあるだろう。何故なら、私たちにとって
何にも増して重要なことは、教授法に関する「流行」を追うことではなく、
口々教室で生徒に立ち向かう時、外国語習得に関するトータルな力を如何にすれば
つけ得るのか、ということだからである。その意味で、ボトムアップ方式には
無視できぬ要素が含まれていることを、取り合えずは明記しておく必要があると
思われる。
ボトムアップ方式に頼り過ぎた場合のマイナスの要因はほぼ次の4点に絞られる。
・・・(1)日本語に訳出したつもりでも、その訳文が何を言っているのかが訳者
である生徒に理解出来ないことがある。(2)要点と、それほど重要でないことの
区別がつかなくなる。全てのセンテンスが同じ比重として感じられる。
(3)パラグラフ単位の意味をまとめて受け止めることが出来ない。(4)全体の
論旨や中心にある思想が汲み取れない。・・・
勿論上記の(1)〜(4)の実態は生徒の陥っている状況を述べたものだが
ボトムアップ方式に固執する人たちは、目標言語(target language)の運用能力
という点においても、確実に生徒が陥っている状況とさほど距離のないところにいる
と言っても過言ではない。したがって、これはまさしく教える側が抱える問題でも
ある。
しかし、なによりも問題なのは、上記のような実態に陥らないための工夫が
あまり考慮されず、教育現場においては、しばしばいきなりトップダウン方式の
利点だけが強調されることなのである。これはかって旺盛を極めた
パタン・プラクティス(pattern practice)の長所と短所の分析が
なされないままに、パタン・プラクティスが効果の薄い、単なる時代遅れの
機械的教授法であるという評価を下されていることと無縁ではない。しかし、
よく考えれば分かることだがパタン・プラクティスとは、mim-mem
(mimicry-memorization)に関わるごくあたりまえの一連の学習、すなわち
英文の構成要素を置換(substitution)させたり、英文の種類を変化
(conversion)させたり、語句や節を付け加えたりさせ(expansion)
ながら生徒の表現力を膨らませる可能性をおおいに秘めているのである。
要は、どれほど効率的で有用に見える言語教授理論であれ、メリットと
デメリットが当然あり、教える側にとってはその両面に自覚的であることが
要求されているということである。何より我々にとって重要な視点は、様々な
教授法が共存することが自然なあり方であり、どのような共存の仕方が生徒の
外国語習得にとってより効果的であるのかを、日々の実践の中から発見していく
ことなのである。当然のことながら、この種の実践の積み重ねは教える側の
言語運用力をも同時に高める。
(2)ボトムアップ方式を有効利用するための基本的な考え方について
比較的長い英文の中には、記憶しておけば必ず他の場面で応用可能な英文が
いくつも含まれている。もし、このボトムアップ方式が有効利用出来るとすれば、
表現として蓄積に値する英文(必ずしも受験対応の単語や語句が含まれている必要は
なく、生活言語的な表現で、ネイティブ・スピーカー以外の人にはなかなか口をついて
出にくい表現を含むもの)をターゲット・センテンスとして位置づけられる場合だけで
ある。これ以外の単語・熟語・連語に関しては英英辞書の中から、該当する語句の
説明に当たる箇所を抜き出して与えるか、或いは該当の語句の説明に当たる部分を
ブランクにしておき、その中に覚えるに値する語句を入れさせて、単語・熟語・
連語等の学習がそのまま新たな英文に触れる機会になり得るような簡単なシステム
を創り上げておくのである。このような訓練には、日本語→英語、英語→日本語
という一語ごとの単なる置き換えの作業(substitution)から生徒を解放する
可能性がある。
日本語での文法的説明は最小限度に抑えて、新出の文型や文法事項、
単語・熟語・連語の導入の後、前記したようなターゲット・センテンス
(target sentences)を反復・模倣させ、記憶させる。ここで最も大事な
ことは、センテンス単位の獲得である。この単位を教える側が常に頭に置いて
おかないと、生徒は断片的な語彙の習得を、英文の「読み」
(reading comprehension)の行為と錯覚してしまう。「読み」はあくまで
対象になる英文の内容を推論しながら論旨を汲み取っていかせることが目標
なのである。
(3)トップダウン方式への移行をスムーズに行うために
前記したようにボトムアップ方式が意味を持つのは、あくまで新出の文型や
文法事項、及び単語・連語等々の導入それ自体が自己目的化するのではなく、
それらの要素を含むセンテンスを生徒に提示し、あくまでセンテンス単位で
理解させ得る場合のみである。あるいはもう少し控え目に言えば、単語を
1語ずつ記憶するということを避け、「形容詞」「名詞」とか「動詞+名詞」
の結びつきを出来るだけ一つの単位として認知させることが大事なのである。
そうしないと、覚えた単語数は増えてもそれらを有効に使えないという事態が
当然起こるし、生徒の表現力を豊かにすることにはなかなか繋がらないからである。
これはスキーマ理論(Schema Theory)における形式スキーマ(formal schema)
の獲得に当たる学習行為として位置づけられる。形式スキーマとはTextの構成や
言語学的な要素に関する知識である。Textの構成とは、例えば1つのparagraphの
構成がどうなっているか、etc.のことであり、言語学的なこととは、言語の持つ
ルールや語彙に関する知識のことで、語彙力や文法力等はこの領域に入る。
教える側がスキーマを問題にするとき、どちらかと言えば、形式スキーマの
中でも言語学的な言語スキーマに関心の中心があり、Textの構成に対する考察は
決定的に欠けていたと言えるだろう。
したがって、このようなボトムアップ方式の領域に属する言語活動の意味と効用
を教える側が認知した上で、英文を逐語的に日本語に訳出していくような蒙昧な行為
(translation method)から抜け出すための方法論が次に論じられなくてはならない。
(4)パラグラフ・リーディングの前提になるもの
何故パラグラフ・リーディングが必要なのか、という疑問は、教える側が過去に
受けた授業のイメージから未だ自立出来ていないためか、あるいは日本語の
ネイティブとして日本語を読む場合の、ごく当たり前の思考回路を分析してみよう
としない知的怠慢からしか出てこないはずである。ましてや、大学入試問題を
「読み解く」ためにtranslation methodが有効であるという論理じゃ論理の名
に値しない。差し引いて言っても、それはあまりに非効率な方法論としか規定
しようのないものであり、将来的に英語嫌いを再生産していくという点において、
実害がある。
英語を「読む」という行為は、単語を1語ずつ認識していくことではない。
最も小さな単位をとってみても、読み手は句(phrase)や節(clause)の単位で
英語を認識している訳であり、ごく初期の学習者に対しては、英文にスラッシュ
(/)を入れながら読ませるが、その際、スラッシュを入れる原則を教えておく。
原則は次のようなものでよい。
1.前置詞の前で切る。/ 2.不定詞の前で切る。/ 3.接続詞の前で切る。
/ 4.〜ingの前で切る。/ 5.時を表す語句の前で切る。/ 6.疑問詞の前で切る。
上記の6つの原則を定着させて、学習者に意味のあるひとかたまり(sense group)
を認識させ、「読み」の最小単位が、音読(reading aloud)の際のポーズの置き場所
でもあることを意識させるのである。これが英文の流れを学習者に自然に掴ませる前提
である。
しかし、このようなreading technique は英語の構造を認識させるための前提条件
に過ぎない。このような英文の構造がある程度定着したら、学習者はすでにその時点で、
所謂逐語訳というような愚行から解放されている。さらに読み(reading comprehension)
の基本概念―読み手が話題に関する知識(content schema)に基づいて、一定の仮説を
たて、読みながらその仮説を修正していく−を身につけさせるための訓練をして
いくことになる。
前記した6つの原則に従って句・節・文単位で、テキストを黙読させておいて、
音読する際は顔を上げて、テキストから目を離して擬似的にspeaking
を意識させながら読ませる。この活動を通じて、英文を読むという行為は音声と
関連づけられる。また、この方法である程度なめらかにテキストが読めるように
なったら、テキスト準拠の朗読テープを使って、テキストを見ながら朗読テープに
合わせて読ませる。英語の音やリズムに慣れると同時に、学習者はテキストの内容に
大雑把に目を通して、内容の拾い読みをすることになる。スキミング(skimming)
の活動は、この時点でまず実行されなければならない。
(5)パラグラフ・リーディングのためのいくつかの方法論について
(a)「日本語訳」を与える
英文和訳を授業の中心からはずすことが目的である。Translation methodでは、
英語1文→日本語1文に訳出する作業が授業の中心になってしまい、この作業の
プロセスで、英語の運用力がつくと確信している人はまずいないのではないかと
思われる。例えばこの作業を合理化出来る理由は大学入試対策であるが、これとて
かってのような英文和訳問題が出題される可能性は低い。大学入試問題に採用される
問題の傾向も変化しているのである。(4)パラグラフ・リーディングの前提になる
ものの順序に従って、音声指導を必ず「読み」の指導の前提に置く。というのが原則
である。
テキストを学習するときに日本語訳を与えてしまうことで、授業の形態を本質的
に変えてしまう。訳出中心の授業では、それだけで時間がかかってしまい
教師→生徒という一方向の講義形式にならざるを得ず、生徒とのinteractionは
期待出来ない。授業のどの時点で日本語訳を投げ入れるかについては教える側の
判断にかかっているが、どの時点で入れるにせよ、英語によるQ and Aの一助に
なるような位置づけでよい。
(b) True or Faise 形式の質問形式
英文和訳という、日本語を介在させた「読み」から、出来るだけ日本語の
介在なしに英語を理解させるための初歩的だが、効果的な方法論である。
たとえば、英文和訳をやめた段階で、英語によるQ and Aをいきなり
はじめてしまえば大多数の生徒は萎縮してしまう。しかし、T&F形式では、
生徒は英文を読む段階ではこれまでと同様の知的作業をするだけだし、
英文の質問に関しても一行程度の英文を読んで、TかFかで答えるので
比較的抵抗を感じることなく、英語を通して理解する出発点に立つことになる。
初歩段階では、質問は日本語で与えることはあり得るし、逆に高校段階で、
かなり高度な英文の内容を問う場合も、この方法論は英文和訳とは全く質的に
異なった「読み」を学習者にさせることになる。つまり学習者は逐語訳から、
パラグラフ全体、あるいはそこからさらに発展して、前文へと視点を拡げる
ことが出来る。少なめに見積もっても、この方法論は、以上のような可能性
を秘めている。
(c)トピック・センテンス(Topic Sentence)を探させる
各パラグラフの中から、どの文が最も重要なメッセージを含んでいるかを
探させるのだが、このような訓練を繰り返すことによって。本来パラグラフとは
「ある意味のひとまとまり」であることを学習者に理解させることが出来る。
また、それぞれのパラグラフの中にはコアー(core)になる文があり、それが
トピック・センテンスであることを了解させるのである。最終的には、
学習者はコアーとなる文以外の文は、そのコアーになる文の説明文
(supporting sentences)であり、具体的な例証や、その説明から
成り立っていることが理解出来るようになる。この段階に到れば、学習者は
和文英訳にこだわる姿勢を離れてくる。(a)〜(c)のプロセスを経て、
「読み」の指導の段階は、いかに学習者にたくさん読ませるか、という課題に
入っていく。たとえば個々の学習者に対して、個別のリーディング素材を与え、
その評価も個々の学習者に任せるという方法論が一方で必要であるが、本稿では
一斉授業をする際の「多読」指導とはどのような方法が望ましいのかを論じていく。
(6)一斉多読(Extensive Reading)指導の要領
@通常教科書のはじめにある本文の内容を説明する文を黙読させる。これは、
内容スキーマ(content schema)を学習者に与えるためのもので、英語で
与える場合は未習語句を含めるべきでないが、もし未習語句があれば、
その簡単な説明をする。この内容スキーマは、可能な限り生徒に辞書なしで
理解出来る程度の英語で与えるのが望ましい。教科書の説明文が日本語で
与えられている場合は極力既習語の英語に言いかえて生徒に与えることが望ましい。
A音読(reading aloud)を「読み」の指導に生かすためには空読み
(eyemouth reading)-音声面だけに気をとられて、内容理解が不十分に
なるような音読―を避けることが重要である。Read and Look upの方法論に
到るまでに、学習者には、意味のまとまり(sense group)に注意させて読ませる。
意味のまとまりは、前記したようにスラッシュ(/)を入れさせることで訓練済で
あるが、音読の際に、意味のまとまりとポーズを置く箇所とが一致することを意識
させるのである。
B黙読(silent reading)をさせるが、その際に出来るだけページごとの英語の
Q&Aを学習者に与えておき、質問に答えることで内容を確認させる。質問に
答えられたかどうか確かめるのは、質問と同様にページごとの解答を用意しておき、
解答が完了したら個別に教壇まで取りに来させる。競争心をある程度煽る訳だが、
学習者の半数程度が取りに来たら残りの学習者に配布する。目安はクラスの半数
である。これはやり過ぎると生徒の自信をなくさせることに繋がるので注意する
必要がある。教える側は、この間机間巡視していて、生徒の質問を個別に受ける。
複数の学習者に共通する質問は、全体に知らせながら学習者の理解を助ける。
C一応Q&Aに答える活動が出来たら、学習者には該当ページに関するかなり確度の
高い読解が終了したと評価出来る。英和辞書を引かせるのは、学習者が自分の読解
を更に深めるこの段階である。学習者にとって英和辞書を引くのは、未知の単語の
日本語訳を知るためではない。むしろ未習語句はリストにして授業の最初に
配布しておく方がよいくらいなのである。ここで辞書を引くのは未習・既習を
問わず、語句の使い方を例文の中で確認させるためである。授業の最初に配布する
単語リストに、ぜひ英語表現として蓄積させておくべきものについては、例文の中
にブランクをつくって、そのブランクの中に適語を入れさせたり辞書から引いた例文
をそのまま書き入れさせたりするような活動をこの段階で取り入れる。辞書を引く
活動が時間不足で保障出来ない場合は、新出語句リストだけでテキストを読了する。
Dテキストの重要な箇所(これは主に形式スキーマに関するもの)をブランク
にしたワークシートを配布し、テキスト付属のテープを使って、ディクテーション
(dictation)をさせる。こうすることで、テキストの内容のよりいっそうの定着
(consolidation)が可能になる。この場合の目的は、音読した場合のリエゾン
(liaison)に関わる部分が学習者に耳から聞いて理解出来るかどうか、
また聞き取った英語の内容が同時に把握出来るかどうかである。
(7)質問の創り方
英語で質問することの意味は、<(1)生徒の理解度を知るため
(2)生徒の聞く力(listening comprehension)と話す力(speaking ability)
を伸ばすため (3)生徒の理解可能な英語を出来るかぎり聞かせたり読ませたり
させる>ということである。まとめて言えば、Krashenが主張したような
comprehensible input をどれだけ増やせるかが質問の創り方の課題となる。
(a)Finding Facts 型
((意義と利点))
ある教材を読ませる場合に、質問は答えとなる事実が全ての教材の中に
見つけられるように創る。質問を与えられる生徒の方からすれば、教材を
読んでいけば答えはその中に全て見つかるので、生徒が教材の内容の基本的な
部分を掴めているかどうかをチェックするためのものという位置付けで創る。
生徒に教材を読めたというある程度の確信を持たせることが可能である。
難易度はa. Yes/No questions ⇒ b. Either/Or questions
⇒ c. Wh questions の順である。
((短所))
Q&Aが比較的単純な応答になりやすい。テキストの中から殆ど原型のまま
拾い出してquestions を創り、学習者もテキストの中から解答を拾い出すので、
この方法を続けるとT−Pの間のやりとりが機械的になり、生徒の中の予測力
(prediction)・想像力(imagination)・創造力(creativity) といった力を
統合出来ない。この方法はコミュニケーション能力よりは学習者に文法・文型を
正しく使いこなさせることに目標が置かれている。Finding Facts 型は事実の
交換であり、日常生活の中で事実の交換だけで会話がなされる場面はごく限られて
いる。したがって、英語のQ&Aがこのレベルに終始していると、現実の
コミュニケーションの場面でネイティブの英語が聞き取れたり、
応答したりすることが出来ない。長年学校で英語を学習しても、英語が喋れず、
したがって学校英語は役に立たないという批判は幾つかの要因が重なっているにせよ、
もしこのレベルのQ&Aに終始している授業をやっているかぎりは、学校英語無用論の
批判はある程度当たっていることになる。
(b) Making Inferences 型
((意義と利点))
ある教材を読ませるのだが、学習者には質問に対する答えが当該教材の中には、
必ずしもすぐには見つけられないような質問をつくる。つまりテキストの中から
直接答えとなる英語を拾い出せないので、学習者はテキストを読んで、質問の答え
を推測する(Making Inferences)必要が出てくるのである。答えとなる事柄は、
文脈(Context)をたどり、学習者自らの判断を組み入れながら創る必要が出て
くる。教材に対する賛成意見や反対意見などを、自分のささやかな表現力でも
なんとか述べさせ、学習者には自信を与えることが出来る。また、このような
Q&Aがコミュニケーションへの確かな足掛かりになるような言語活動であろうと
規定出来る。
((短所))
一斉授業におけるリーディング指導を行うことを前提にしている以上、学習者